Fußball Story1   2015.10.07


Kicker 2015.07.06 Nr.56 28Woche 意訳
Titel: Von der Straße in die 4 Liga
ストリートサッカーから4部リーグに
Steil nach Oben 急上昇
ギネーアからの2年をかけての放浪の旅でオストウエストファレンにきました。
Cellou Diallo 19歳は、まず、その地域のクライスリーガ(ドイツで一番下のサッカーリーグ)に所属し、クラブ昇格に貢献しました。そして、今、このアフリカからの難民は地域リーグ4部んび属するチームに移籍することになりました。
2014年秋、オストウェストファレン。Steinheimという小さな町のインターネットカフェでブンデスリーガーの中継が流されていました。一人の客、ギネーアからのCellou Diallo,もう一人の客は, Steinheim のHaydar Özdemirです。
アフリカ人のCellou Diallo は近くの難民収容所に丁度、入所したばかりです。37歳のドイツトルコ人の Haydar Öydemirは地元に根を生やした人物で、TSG Steinheim クライスリーグBの監督をしていました。二人は可能な限り、コミュニケーションをとりいろいろな雑談をしました。たとえば、サッカーしますか?チームのトレーニングに参加しませんか?ボールを蹴るのと Diallo は答えました。Diallo は故郷ではストリートサッカをしていただけです。段ボールや布切れを丸めて作ったボールでサッカーをしていました。それでも、Diallo は練習に参加することにOKしました。別に後悔する理由もありませんでした。
2日後に、Öydemirさんは、この若い Diallo君を迎えに行き、初めてのトレーニングに連れて行きました。車の中でÖydemir さんは Dialloに尋ねました。君はサッカーうまいの?Dialloは肩を上下に動かし、”わかりません。でもギネーアの私の友達は、とてもうまいといってくれています。”
アフリカ西海岸のギネーアの Yembering という小さな村で育ちました。両親はとても貧乏でした。Dialloはヨーロパへの夢を抱いていました。そして、いつかサッカープロ選手になることです。レアルマドリッド、マンチェッターユナイテッド、いちばんはバイエルンミュンヒェンです。もし、彼が青少年時代のことを話さなければいけないときは、サッカー、サッカー、サッカーと現在、Diallo、言っています。2012年に北に向かいました。
彼の旅は2年間続きました。ほとんどの場合、彼はプライぺートの車で移動しました。時には歩いての移動です。眠るところも時には、野宿やビニールで簡易のテントを作り、そこで寝泊まりもしました。何時も問題があったのは、警察官、兵隊、税関関係者とです。アルジェリアやモロッコではそこの住民との問題もありました。しかし、彼らの影響を受けずに、大好きなサッカー仲間と一生懸命サッカーに励みました。
やっとのことで、地中海海岸のモロッコにたどり着き、Diallo 何度もスペインのEnklave Ceuta にたどり着けるよう、試みました。この企ては失敗しました。2014年の春、ある友人から、再びお金を借りました。そのお金を逃亡手引き者に支払い、他の20人の難民者と一緒に木製ボートにのり、或る夜にカタカタブルブルと出航しました。運がいいことに、朝方には、Malagaの近くのスペイン側の砂浜に到着しました。Diallo はボートから膝まである海水の中に飛び降りました。彼はヨーロッパに着いたのです。
4か月間、スペインに滞在していましたが、居心地がなんとなく良くないので、ドイツに行くことを決めて、出発しました。お金は、通りで、車洗いをして、稼ぎました。そのお金で、汽車の切符を購入し、汽車に乗りました。ドイツについてから、Stuttgart で難民申請をしました。ここから、彼はDortmund に輸送されました。しかし、彼はそこでも、きちんとした扱いわされませんでした。それで、彼はLippe地域のSchinder-Schwalenberg の難民ホームに連れてこられました。その難民ホームから、数キロメートルのところにSteinheimの人工芝のあるところに、彼はいたのでした。そして、彼ができることを見せたいと思いました。寒くて、暗い、そして、初めてサッカーシューズを借りて、履きました。
ウォーミングアップで5対2のプレーをしました。監督のÖydemirは、笑いで体を震えさせながら、説明しました。一分見ただけで、すぐにわかりました。彼は我々のチームには長くはいないだろうということです。ボールコントロール、精度も高く、クライスリーガB にはパーフェクトすぎました。選手証はすぐに手に入れ、この細い選手は、後期の冬から、ゲームに出て、得点、同様にアシストを続けました。そして、Steinheim のチームはクライスリーガのAに昇格しました。
攻撃的なポジションであれば、彼はどこでもこなします。彼の利き足の左からいいシュートを打ちます。右足で中に入り、左でシュートを打ちます。彼の手本になっているのは、バイエルンミュンヒェンのアリエン ロベンであることは明らかです。すぐに彼は、観衆の人気者になり、チームメイトも彼に対しての嫉妬心はありません。Dialloはインテグレーションンの最良の見本例です。毎日のドイツ語学習、時間のある時にはチームメートと余暇を楽しんでいます。クラブもサッカー用具を与えたりして、できる限りのアシストをしています。Özdemir 監督はできる限り彼をクラブにとどめておきたいのですが、しかし、彼の能力が高いレベルにあるので、彼の能力にあったチームに移籍させたいと思っています。5部リーグ所属のFC Gütersloh やプロチームのSC Padaerborn の2軍と昔の5部リーグの選手を通じてコンタクトを取っています。しかし、この両チームは興味がなさそうでした。理由は難民希望者で、いろいろな事務処理が面倒で問題であるというのが理由でした。彼らはCellouのプレーを見ることをしませんでした。見ていれば、もう一度考え直したと思いますとÖzdemir監督は語っています。
そのすぐあとにDialloはチャンスを得ました。Özdemir監督の友人がHerford の地域のSVRödinghausenでのトライアルができるように、アレンジしてくれました。このチームは過去5年間、昇格している向上しているチームです。クライスリーグAから、4部リーグまです。3月のある寒い夜、監督とDialloはRödinghausen に向かいました。このアフリカ人は緊張している感じでした。きちんとしたスタジアムで、”ブム ブム ブム”と
Diallo はTシャツの上から心臓部を抑えながら、当時を思い出しながら語りました。SVRの監督、Mario Ermischさんは二人のお客に握手で挨拶し、とりあえず、ボールを転がすことです。クライスリーグBから4部の差はかなり大きなものです。6リーグの差があるのです。トレーニングゲームでDiallo は3点あげました。Ermischさんは終わってから敬意を示し、2回連続でのトレーニングに耐えられるかどうか見たいといいました。
Dialloのように、苦難の長旅をしたら、Ostwestfalenでの2回連続の練習なんかは大したものではありません。2回目のトレーニングでも確信させることができました。そして、3回目、4回目もです。Dialloは、今まで、クラブに所属て、サッカーをしたことがないと、後で彼自身が語っていますが、信じられませんねと Ermisch監督が本当に信じられないことですよ、語っています。トライアル2週間後に契約書を交わし、クラブが小さなアパートをRödinghausen に用意してくれました。Diallo は本当に大満足です。
ある6月の土曜日が2015&16年シーズンの一軍選手の初練習になりました。地元のプレス関係者及び見物人も集まり、早い時間帯でしたが、屋台のソーセージを食べたり、ビールを飲んだりしていました。一軍選手は、プレス関係者、観衆に対して、シーズン前の自己紹介をしました。もちろん、そこにはDialloも29番の背番号をもらい、ギネーアからの少年ということで、観衆の話題でした。ボール扱い感覚が非常にいいという評価がすぐに得られました。いいシュートもするなどとのコメントもでてきました。SVRのスポーツマネジャーはビールに水滴を落としながら、今のところ彼は2軍でのプレーしか認められていませんが、それでもWestfalenリーグですから、希望としてはシーズンが始まるまでに、一軍でのプレー許可が出ることを祈ります。Eemisch 監督も望んでいることです。スポーツ面で、彼の実力は問題ありません。これに関して、この話は人間性な観点で行くと我々としてもSteinhausen のHaydar Özdemir さんが始めたことを引き続き、こちらで引き受け継続したいです。まして、ドイツサッカー協会でも難民のインテグレーションを推進するということなので、SVRクラブとしても、協力し、よい見本をつくりたいですねとGrädlerマネージャーは語り,監督も一致した意見を述べています。
それに加え、Dialloは短期間の間に、ドイツ語を習得しています。グランド上でもすぐに、うまくいきました。いちばん最初のテストゲームはブンデスリーガ1部から降格したSCPaderborn。Wiehen スタジアムには結構観客が集まりました。Dialloはスターティングメンバーに選ばれています。結果は1対1でした。Dialloは得点に絡めませんでしたが、プロのパーダーボルンの選手二人を相手にして、サイドラインから、魔法のようなセンターリングを上げ、観衆を驚か、観衆はペットボトルを叩き歓声を上げて喜びました。このシーンに対しての観客の反応は喜びと爆笑でした。”彼はどこから来たの?“と観衆の一人が聞いてきました。横に座っていた客がガーナじゃないのと答えます。ギネーアはガーナではありません。シーズン中には覚えてくれるでしょう。
みんなから褒めたたえられている本人としてはどう思っているのでしょう?まだミュンヒェンやマドリットの夢を見ているのでしょうか?それとも、彼の夢はWestfalen州の村のサッカーチームで満足を満たしたのでしょうか?Cellou Diallo は困ったように笑って答えました。まずは4部リーグ、Röhdinghausenはリアルではありません。でもRöhdlingen
は現実です。そして、これは過ぎ去った月々を考慮してのことです。これはすでに超現実に値するのに十分ですね。



Bundesliga Story 2  12.03.2014

Sportmagazin Kicker Nr.20 3.3.2014 Seite 12/13

下記の記事を読み、日本の皆さんにドイツの状況、ドイツのサッカー、可能性等、この記事の中で再確認出来るのではないでしょうか?チャンスは何時来るかどこにあるか、解っているようでそうでもありません。常に努力し、へこたれず、迷うことなく進んでいけば、チャンスが来ると思います。来たときの判断、、タイミングが大事かと思います。皆さんもチャンスを活かし、自分を信じ、日ごろから努力しましょう。才能だけではトップにはいけません。行けたとしても、長続きはしないと思います。日ごろの準備、努力を忘れないよう、がんばってください。スポーツは人生の一部です。生活の一部です。現役後も楽しく、身体を動かしたいものですね。

池下興治 ドイツミュンヒェン在住 2014年3月11日意訳

“誰も私を認めなかった”

アンドレ ハーン(Andre Hahn) 23歳のプロ選手生命はほとんど終わりであった。車塗装工職人が代表選手に選ばれる。

空っぽのガソリンタンク、3つの冷凍ピザそして、数多くの欲求不満、あとに何もないということはどんなことか、生活するのに最低な世界、多くの人が経験している、プロ選手として成功しているプレーヤー比較すると計り知れない距離にあるように見えていました。それは、不振であり、将来の不安であり、それに加え、自分自身の疑うことです。これは明白なことでしょうか?真実はシンプルであることがいわれます。

アンドレア ハーンは先週の金曜日以降、ヨアヒン レーヴェ代表監督率いるドイツチームの一員になり、評判の選手になりました。ハーンは両足が使え、サイドからスピードある攻撃が出来き、人々を驚かせ、感激を呼ぶ、アグレしぶなプレースタイルです。今シーズンは今まで10得点、5アシスト、専門家もびっくり以上の成長をしたことに驚嘆しています。

過去を振り返ってみましょう。17歳までハーン選手は低地ドイツでプレーしていました。彼の出身は エルベ川にあるCuxhaven の近くのOtterndorf です。昔から彼はテクニッシャンプレーヤーではありませんでした。いわゆるタレントではありませんでした。”しかし、かれは意志力が強く、走ること、戦うことが出来ました。”そのように彼自身が語っています。”いつでもそれは出来ました。”ドイツユース選抜には決して選ばれることはありませんでした。選抜の網目に引っかかることはありませんでした。

それでも2008年 ハンブルグSVは彼にチャンスを与えました。彼の憧れのチームでした。勿論、ブンデスリーガでのプレーを夢見ていました。サッカーと平行して、車の塗装工の教育も受けました。サッカーがだめなら、他の道で食べられる道を作る安全策も考えていました。朝7時には仕事に行き、10時にはトレーニング、そのあとも仕事に行きました。仕事後も勿論またトレーニングです。彼の測り知れない野心が彼を動かしました。彼にとって大事なことは夢を持つことであり、その夢は大きく、見失わないことでした。4部のレギオナルリーグ 39試合出場で2得点の結果はハンブルクSVとしては物足りず、契約の更新にはなりませんでした。ハンブルSVいわく、プロになるには十分でないという理由でした。自分がブンデスリーグでプレーできないというこの言葉は、プロになろうとして自分にとりかなり大きな衝撃でした。誰も自分を評価してくれないし、認めてくれなかった。認めてくれたのは父親と自分自身だけであった。


全てが思うように行かず、希望どうり行きませんでした。2010年は所属クラブもなく、エージェントを得るチャンスは全くなく、私の面倒を見ようというエージェントも現れませんでした。父親と一緒に新しいクラブチーム、新しい展望を探しました。父は FC Oberneulandのチームに打診し、私自身、クラブに入れてもらえるよう、頼み込みました。
しかし、この4部のチームでもサッカーも、経済状態も思うように行ませんでした。当時20歳で、200ヨーロで毎月生活しなければなりませんでした。時に、7人の選手で車に相乗りし、練習にいったこともありました。というのは、他の選手も同じようにお金がなく、一人でガソリンを入れてトレーニングに行くことは不可能でした。ハーンは過去を振り返り、たまにですが、週3つの冷凍ピザとミュラーミルクでの生活をしたこともあります。生活しているとはいえない状態でした。彼の父親はアンドレアを経済的に支援はしていましたが、本人は独立してやりたいという気持ちが強く、野心も大きかったです。しかし、現実は野心より大きかったようです。

2011年、金髪のハーンは契約解除し、父の事務所で保険業務の実習教育をする予定でした。全てうまくいかないのであるから、ある程度賢明に動かなければいけないと思いました。

FC Oberneulandでの残り少ない試合で、今まで不成績に終わっているこの攻撃的選手ハーンが突如4試合で、7得点を挙げる活躍をしました。突如、今までが嘘のように、うまく得点することが出来るようになりました。その時に、3部リーグのTus Koblenz からのオファーをもらいました。そのときまで、ハーン選手はほとんどあきらめていました。突然やってきたチャンス、また目標に近づいたようでしたが、経済難のため3部のプロチームであった Tus Koblenzは4部に降格なり、ハーン選手はOffenbach Kickersに移籍変更になりました。そこでも同様、伝統あるこのチームも経済難のため、その後プロライセンスを剥奪されました。”絶望的な状況で、物事が先に進みませんでした”

ある晩、家の前で車内で座っているときに、それは20時頃でしたが、携帯に電話が入りました。電話をしてきたのは、ブンデスリーグ1部、FCアウグスブルクのマネージャー Stefan Reuter 氏でした。彼からのオファーがありました。大きな才能ある選手でないが、大きな意志力があるので、チームに適している選手であると見込みました。このとき、ハーン選手は びっくり仰天で、何もしゃべれず、話を聞いていただけでした。”ハーン選手は今でも当時のことを思い出しいたずらっぽく笑っています。
彼の契約は2013年の夏まででしたが、アウグスブルクに取り、直ぐに移籍させるだけの価値ありとし、300,000ヨー
ロの移籍金を払い、冬に移籍させました。
もし、選手を3部から一部に移籍させた場合、どうなるか、どう成長するかなかなか解らない、ということであるが、アウグスブルクの監督 Markus Weinzierl はアンドレアは必要な能力を持っているのでチームに適応できるであろうと評価。昔はハーンの技術がないということで笑われましたが、彼のスピードで突破力あるプレーでチームには必要なプレーヤーになりました。彼は毎日のトレーニングに励み、特訓も進んでこなしています。監督いわく、彼の経歴は普通ではないでしょう。彼にとって、新しい分野になるでしょうが、早く自分のものにするでしょう。習得力、習得心も強く、何も言わなくても進んでプレーしてくれます。ハーンとチームがうまく噛み合ったようです。彼のブンデスリーグデビューが期待していなかった一部残留につながりました。
ハーンの契約は2016年までですが、既にリーグのトップクラブは彼に目をかけています。いまではエージェントが彼を得ようと必死で追いかけているようです。
父の健康状態が悪くなり、いろいろな処理事項が増え、Sports Totalとエージェント契約をしました。自分としてはサッカーに集中したいので、が理由です。シューティングスターは現時点でブンデスリーがトップクラブ、ドルトムンド、レバークーゼン、グランドバッハのリストにあるようです。うわさでは、夏に移籍し、レンタルでアウブスブルクでのプレーをするような話もあるようです。この23歳のハーン選手は、まだどこのクラブとも仮契約はしていませんと主張し、全ては噂話であるといっています。

ハーン選手は今までのアプダウンの経験で落ち着いたキャラクターをもち、チーム、監督、スタッフ及び
同僚に感謝しているようです。


昨年のアレナでの降格はしませんという垂れ幕を掲げたチームが、今シーズンはヨーロッパカップの可能性を持ち、ハーン選手をWCブラジルへという呼びかけがあります。
ハーン選手はいまでもにたにた笑いながら信じられない、刀礼を受け、代表選手で胸に鷲のマークをつけられるなんて、理解できないと 答えています。

人生はいろいろな変化があり、小さな中に大きな出来事があるでしょう。アンドレ ハーン選手はいい道を歩むことになるでしょう。

という記事でした。皆さんどう思われますか?信念を持って、あきらべず自分自身が持っているものを
全て出し切り、悔いのないサッカー人生をお送りください。社会に出てからも必ず役に立つことがあると思いますし、スポーツで得た経験をいい意味で人生に役立ててください!

池下興治 ドイツミュンヒェン在住 2014年3月11日意訳

Bundesliga Story1

皆さんは、Cacauという選手をご存知ですか?Nr.46号のキッカー紙の特集で彼の記事が出ていました。日本の皆様にもご紹介したいと思い、抜粋した内容と私の意見を入れてご紹介したいと思います。   Cacau (正式名: Jeronimo Maria Barreto Claudemir da Silva)選手は 1981年3月27日         ブラジルのSanto andre’ に生まれる。    トップでパートナーを組む、同僚でドイツ代表選手のMario Gomez選手はCacau選手のおか今の自分があり、特別な意味で感謝したいと語っている。) 、ブラジル生まれのCacau選手が、28歳にしてドイツ代表入りし、今回のアジア遠征で、対中国戦、68分,Mario Gomezと交代して、初代表試合をする。  Cacau選手のように、ブラジル生まれの選手で代表に選ばれたのは3人目である。過去にはPaul Robert Rink(13回出場) ,Kevin Kuranyi(52回出場)の両選手が代表の経験があります。   生活において、ブラジルとドイツでは大きな違いがあります。Cacau選手のSau Paulo での生活は貧困とまではいかない生活環境で中で育ちました。18歳になったCacau選手はサンバのダンスグループの一員として、ドイツに来る事チャンスにめぐり合いました。ダンスグループの一員でしたが、ダンスをする目的ではなく、当時、このグループの代表者でサッカーの熱狂的ファンで(現在はCacauのよき友人であり、マネージャーでもある)あったこの人物に運を天に任せるつもりで、Cacauをダンスグループの一員として、ドイツに連れてこられました。当時のCacauの自分なりに考えていたことですが、サッカーで何とか成功をするためには、兎に角このブラジルを出て行かなければサッカー選手としての可能性は少ないと思っていました。という理由で、必要なものをまとめて、グループの一員として、ドイツにやってきました。   ブラジルには現在、両親と兄弟が暮らしています。そのうちの1人の兄は30歳で、サッカーのプロ選手ですが、現在チームを探し中です。もう1人は弟で27歳の学生で経営学を勉強しています。当時、Cacauの母親は掃除婦として働いていました。毎日、食べるもの心配するほどの貧困とまではいきませんでしたが、毎日の生活は常に倹約でした。今は、高給取りの息子Cacau選手が母親のために、家を買い、家を出ていて、年金生活をしている父親にも経済援助もしています。   高給取りになったCacau選手の生活は質素で、エリート意識もなく、自慢げに高級スポーツカーを乗り回すような事をせず、普通のファミリーセダンに乗っています。キリスト教の信者で信仰深いCacau選手はこれといった趣味はありませんでしたが、3年前にゴルフを覚え、その楽しみを覚え、暇のあるときにプレーを楽しんでいます。現在のハンディキャップは32です。   ドイツへ来てからの、Cacau選手の出発は、簡単ではありませんでした。Cacau選手はブラジルとドイツでの生活を通じて、下から始めるとはどういうことなのかということは良く知っています。彼のドイツでのサッカーの始めは、ミュンヒェンのクラブチーム Türk Gücü München(当時は5部リーグ)でした。ここのクラブからは約束の給料が8月ヶ月間支払いがされず、困りました。ブラジルでは、16歳のとき,サンパウロのPalmeiras のサッカースクールから才能なしと通告され、非常にがっかりしました。今、ドイツ、ミュンヒェンでのサッカーの再スタートを振り返ると、ミュンヒェンでの生活は現在の自分自身の基礎が築かれたとCacau選 手は確信しています。協調性に関していえば、ミュンヒェンにやってきた若いブラジル人は、見事にブラジル気質からドイツ人気質に転身していきます。ミュン ヒェンでは彼は必死の思いで、本やカセットを使いドイツ語習得に多くに時間を費やし、一生懸命、ドイツ語を勉強し、新しい生活に、挑みました。そうこうす るうちに、Cacau選手はドイツ人以上にドイツ人になったようです。ドイツ人の性格的特長である、時間厳守、勤勉、約束を守る、野心家であるというような性格にCacau選手はなっていきました。本人自身がいうように、私は本当に時間厳守ですと笑いながら、キッカー紙のインタヴューに答えていました。もしCacau選手が、ドイツ人のように、努力をせずに,遊んでばかりいたら、今日の自分はないと思っていますと、答えています。    ミュンヒェンでの始めは、こんな感じでした、バイエルンミュンヒェンのアマチュアでテスト生として、4週間の練習をしましたが、結果はだめでした。そし て、あるとき聞いた話ですが、ミュンヒェンでのホームゲームでのある試合にスカウトが来ていて、私のプレーを見たようですが、あまりにも酷いプレーなの で、評価の仕様がないと言うようなコメントをしたそうです。残念ながら、当時、どのチームからのスカウトだったCacau選手は記憶していませんが、多分、この日は、私の調子が悪く、最悪のプレーをスカウトは見たのかもしれませんね。この当時はプレーの良いときと悪いときの差はかなりあったことは事実としてCacau選手は認めています。そして、当時の選手のプレーはブラジル的というよりドイツ的であったと言って良いかもしれませんね。   そのあとですが、Nürnberugの二軍(バイエルンリーグ、当為3部リーグ)のテストに一回参加しただけですが、テストに合格、その後、2軍から1軍に上がり、そのあとVfBStuttgart に移籍し、現在はチームのキープレーヤーに成長し、今回、ドイツ代表に選出されました。    今日のCacau選手は二児の父親であり、サッカー選手としても、技術ありスピードありで、得点能力ありで、これからも楽しみな選手です。ところで、ドイツ代表になれたのも、今年2009年、2月2日に、ドイツ国籍取得試験に満点で合格し、ドイツの国籍を獲得しました。これからのCacau選手の目標は2010年のワールドカップドイツ代表選手として、南アフリカで、ブラジル代表と顔をあわせることが、Cacau選手の実現可能な目標(夢?)です。この目標を常に持ち、今後も活躍したいですとのことです。 (ドイツスポーツ紙“キッカーの記事“を意訳しました。)